annindofu

杏仁豆腐は見た目と味にギャップがある点こそが、おいしさの秘訣だと思う。

電子書籍より紙の書籍です、私に向いているのは

電子書籍、とても便利だと思うんです。スマートフォンの中に何冊でも入れておけるし、読みたい時にすぐ読めるし、買いたい時にすぐ買うこともできる。

かくいう自分はスマートフォンKindleとhontoとbookliveの3つのアプリを常時インストールし、いつでも電子書籍を読めるようにスタンバっています。

でも、ここしばらく、電子書籍がどうにも合わない、と気がついたんです。今日はその合わない点を端的に書いて終わりにします。

頭に入ってこない

これだけです。完全に個人の感想です。

なんでこう感じたか、というと、ある時久しぶりに紙の書籍を買う機会があったんですね。書店で偶然見つけた本をぺらぺらとめくり、ふむ、これは良さそうだと買ってから、数日掛けて無事に読み終えたんです。で、自分でも驚いたんですが、本の内容がかなり頭に残っていたんですね。同僚や友達にも話せるくらいに。

あ、こりゃ電子書籍よりも紙の書籍の方が俺には頭に残りやすいのかもしれない、とこのとき感じたんですね。

どうして頭に残りやすいのかを考えてみたんですが、おそらく、スマートフォン電子書籍を読んでいると、ニュースサイトやはてブを読んでいる時と同じ見方で本を読んでるんです。読んでいると言うよりは「見ている」または「眺めている」。「読む」という行為に至っていないんですね。

あと、これは紙と電子の比較と言うよりは個人の話ですが、スマートフォンだと通知が飛んでくることもあれば、思いつきをすぐに調べたくなったりして、集中が途切れやすい、という理由もあります。

漫画などは相性が良い気もするんですが、いかんせん、ビジネス書や物語の類は電子よりも紙の書籍だな、と改めて感じたのでした。 

 

飽きっぽい人は大企業に向かない気がする

や、タイトルの通りなんですが。

大企業(ここでは創業数年でIPOしたベンチャー企業等は除きます)に勤めていると、多かれ少なかれ、仕事は定型的かつ合理的となり、個人の持つ色が発揮される部分は社内資料、メールの作成などに限られてきます。
言い換えれば、それは仕事の効率化や仕組み化が上手くできているとも言え、決して悪いことではありません。創造性が必要な仕事に没頭できるわけですから。

ただ、人間は時間が経つにつれてその環境に慣れてきます。新しく買ったスマートフォンが数日も経つと特に目新しさを感じなくなってくるのと同じように。

大企業というのは、この「新しくなる→慣れる」に至るまでのスパンが早く、さらには「新しくなる」までの期間が長いです。私の経験では、部内決裁を経て稟議書を回し、経営会議で検討を重ね、決議が得られるまでに数ヶ月から1年かかったこともありました。大きなプロジェクトになればなるほど、決議までの期間は長くなります。

そうした環境において、最もストレスを感じる人は「飽きっぽい人」だと思います。

新しい環境、新しいツール。新しいと感じられたはずのものが、飽きっぽい人にとっては光の速さで陳腐化していきます。

で、こういう人には、大企業は向かないのではないか、と思うわけです。一度決まったことを覆すことは、大きな企業であればあるほど、また古い体制を持っている企業ほど避ける傾向があります。

対して、立ち上げ間もないベンチャー企業では、仕組み自体が整っていないために、新しい仕組みを都度提案して作り上げなければいけません。また、すでに作り上げた仕組みも、使いづらかったり、業務の目的に即していなければ必要に応じて即座になくし、新しいものを用意することができます。高速で軌道修正し、問題解決へ結びつけるプロセスが、飽きっぽい人に「飽き」を感じさせない要素になるのではないのかな、と。

情報がめまぐるしく飛び交う今の時代、少しでも新しいものに飛びつきたくなる人間もいれば、ミニマリストのように、必要なモノを必要な分だけ取り入れ、大切にする人もいます。

自分にとって、何が合うのか、そしてそれが分かった上でどんな環境に飛び込むかを考えることが、これからの社会生活のうえでは必要であるように感じました。

 

極めるひとほどあきっぽい

極めるひとほどあきっぽい

 

 

高い声が好き

 

悲しくなる前に

悲しくなる前に

 

SEKAI NO OWARIにハマりきっていた自分を鞍替えさせたバンド、indigo la end
ボーカル川谷絵音のハイトーンで優しげで透き通る声の虜となってしまい、今や自分のiTunesでの再生回数ランキングを塗り替えそうな勢い。 

邦楽ロックのヴォーカルってここ数年でキー高い人が増えてるんだけれど、この人は異質。曲も作れて、歌も上手で、そこそこオシャレで笑いも取れる。しかも地声はわりと低いのもギャップ効果でポイント高い。これだけ要素が詰まっていて人気が出ないはずがない。

とはいえ、やっぱり曲あってのヴォーカルなわけで、やっぱり、その曲作りの才能をあますところなく川谷絵音が発揮していることが、indigo la end、そしてゲスの極み乙女。が売れている最たる理由なのだなあ、と。

ひとりで過ごすこと

恋人が居ますが、ひとりで過ごすことも好きだ。
こういう人、結構いるんじゃないかと。

ひとりで何かに没頭できる人は、わりとこんなタイプな気がする。でも、そういう人に限って、意外と寂しがり屋だったりもする。昔、ミクシィで見つけた「寂しがり屋のひとり好き」というコミュニティ名は、自分の性格を象徴しているようだったとともに、そんな性格の持ち主が、自分の他にもいることを教えてくれて、安心した経験がある。

どうしてひとりで過ごすことが快適なのか、考えてみた

歩調

歩くペースが相手と不揃いだと、そのうちどちらかが歩き疲れる。相手の疲れを感じ取ると、歩くペースを調節し始めるのだが、普段のペースを崩して相手に合わせることは、思いのほか疲れることだ。歩行という行為は無意識に行う動作であり、それを意識的に変化させることは、心身共に疲労感を伴う。

気遣い

上と重なるけれど、普段から他人に気を遣いまくる人は、恋人であろうと家族であろうと友達であろうと相応の気遣いをする。楽しい気持ちでいて欲しい、笑っていて欲しい、機嫌を損なって嫌われないで欲しい…そうした思いから、相手を気遣って会話の調子を合わせたり、相手の一挙一動に気を配りつづける。だから、本人は自覚していなくても内心は相当に疲れてる。

自分の場合だとこんな感じ。気の置けない間柄だとは分かっていても、気遣いは絶えない、気苦労は絶えない。だから時折思う、誰に対しても甘えられて、明け透けなく本音で話している人がうらやましい、と。

衰えとは

若い頃は簡単にできていたこと、していたことを面倒がることから、老化ははじまるのだと思う。

ちりとりでゴミをかき集めて捨てる。小さい頃には掃除の一環としてやっていたこと、簡単なことでもしなくなる。
やりたくなくなりだしたら、良くない兆しなのだと思う。できたはずのことを減らしてしていくことは、できなくなることに繋がるのだと思う。

社員をあだ名・ニックネームで呼び合う社風について

ネットで企業紹介を見ていると、

「うちの会社では従業員同士のコミュニケーション活性化をはかるため、社員をあだ名で呼び合うようにしています。きりっ」

という内容を目にする。で、そのたびに思うことは「いきなりあだ名で呼ばれても困るんじゃないか?」

あだ名やニックネームでの呼び合いは、親しみを感じられる間柄で「さん付け」から徐々にくだけて最終的な着地として行き着くからこそ意味があるわけで、新入社員や同僚同士が会って早々「おぅ、カズちゃん!」「ミッキー先輩!」なんて呼びかけあっても、妙に馴れ馴れしくて違和感ありまくり。

かくいう自分もアルバイトをしていた頃に勤めていたお店で初日にあだ名をつけられて呼ばれたけれど、親しみも湧かない相手に、なぜ初日からあだ名で呼ばれ続けなければならないのか、理解しがたい気持ちでいっぱいだったし、結局退職するまで慣れずに終わったという黒歴史がある。

繰り返しになるけれど、あだ名というのはコミュニケーションが進むにつれて生まれる要素であって、何の関係値も築き上げていないうちから呼ばれても嬉しくも何ともないよ、ってことです。

好きなことで生きる

というようなことを、自由に憧れる人に話してみると、たいていは、自分には無理だ、好きなことでは食えない、という答えが返ってくるけれど、他人からならまだしも、自分で無理だと決めつけてしまったら、絶対に叶わないことを、その相手は忘れてしまっている。

 
なんでもできる、ということを忘れさせるものは、果たして何なのだろうか。
教育?社会?親?友達?
 
いつの日か生まれてくる家族には、自分の力を信じられるように育てたい。